成長の定義
私は現在、就活生と企業を結びつけるマッチングサービスを運営する、ある企業でインターンを行っている。
そこで、多くの企業の情報を見ることが多いのだが、
『圧倒的成長』 や 『同期に差をつける成長ができる環境』 など
特にベンチャー企業に多い謳い文句を見ては、なんとも言えない違和感を感じていた。
違和感の原因は『成長』という単語。
世間的に、ベンチャー企業に入社することは、個人としてより実力がつくこと、より成長可能な環境に飛び込むことができること、だと思われているように感じる。
しかし、それらは非常に抽象的で、あくまでぼんやりとしたイメージでしかない。
正直、大企業や一般的な民間企業に入社しても成長はできるし、なんなら就職しなくても、仕事をしなくても成長できるのではないだろうか。
自分もこれからなにか仕事を見つける身として、何が成長なのか、自分のどんな部分を成長させたいのか、そもそも成長は必要なのかを考えていくきっかけにしようと思い、想いを綴ることにした。
しばらく 『成長』 について考えた。
成長を自分の定義で言語化することは、
日々の生活の中に主体的な行動を促したり、苦しい業務やつまらないと感じる仕事に意味を付加することができたり、また、成長を実感できたときにより自己を肯定できたり、
と何気ない日常に多くの実りや彩りを与えることではないかと考えている。
私が私の中で定義する成長とは、
抽象的に言えば、『以前の自分に変化が起きること』と考える。
具体的に言えば、成長の要素は大きく分けて2つあり、
1つ目は技術的な成長、2つ目は精神的な成長だと考えている。
自分に何らかの変化の起きた結果。
それがざっくり言えば成長と定義することができるかな、と。
1つ目の技術的成長については、ある物事を繰り返すうちに精度や質が高まり、より効率的に行動できるようになることだと考えていて、
例えば、スポーツで言えば、サッカーや野球がうまくなる、であり、アルバイトで言えばレジ打ちのスピードが早くなる、である。
数をこなすことによって作業に慣れ、以前よりも早く、効率的な選択ができるようになり、かつ、以前よりも質を担保できるようになること。
この自分の出せる結果の変化が、技術的成長だと考える。
2つ目の精神的成長については、ある外部要因をきっかけに、自分の心理や価値観になにかしらの変化が起き、それによって思考が変わり、行動の傾向が変わること、だと考えていて、
例えば、自分の憧れの存在から影響を受けて、その理想との差を埋めるべく行動をするようになったり、誰かの話を聞いたときに自分の行動を改め、生活に変化が起きたりすることである。
自分の中に新たな価値観が形成され、それに基づいて以前の自分とは別の選択肢を選び取って生きていけるようになること、
つまり思考に何らかの変化があり、その結果、それに基づいて行動が変化すること、それが精神的成長だと考える。
特に、この定義をしてから自分は人との対話を重視するようになった。
なぜなら、人と対話することが最も自分に価値観の変化、つまり精神的な成長をもたらしていると実感しているからである。
精神に変化をもたらす、自分の中に新たな価値が生まれる、ここに自分はある種の快楽を覚える。
というのも、以前の自分では考えもしなかった価値観に触れ、別の視点から思考できるようになる幸せ、自分思考やそれに基づく行動が明らかに変化したと思える意識、これがさらに自分を高め、より深く、多面的な思考へと導いていくという実感がある。
そういった点で、自分の価値に変化を加えていく物事には主体的に挑戦していく姿勢が望ましいと思っている。
ある挑戦が成功するかもしれないし、失敗するかもしれない、もしかしたら何も生まれないかもしれない。
でも、それから何かしらの気づきを確実に得ることが出来るという確信が、自分を現時点よりもさらに高みへと導いていく。はず。
『成長とは、今までより大きな責任を引き受けられるようになることに他ならず、真摯さや責任感を身につけ、人から信頼を得て、仕事を任され、世の中に対して貢献するということだ』
と定義する人もいた。
確かにそれはそうとらえることも可能だとは思う。
現時点よりも、世の中により貢献できる影響力を持った状態、それは今よりも成長した姿であることは間違いないし、自分の成長した姿をイメージすることは、そこへ向かって努力していく大きな動機付けになるかもしれない。
しかし、自分がどれだけ変化していこうが、自分の思い描く理想像だけが先行していく場合、自分の中の機微な変化を自分でとらえることができず、
『自分は全く成長していない』
のような考えに陥っては挫折をしてしまう、といったケースを想定できる。
憧れを持つことは悪いことではないが、理想と現実のギャップに苦しみながら生きていくよりは、日々精神の変化を少しずつ感じながら生きていく方が楽しく生きていけると思うし、合理的な選択だと思う。
上述した精神的な成長について、一言言っておくとするならば、それは盲目的に多くの価値観を受け入れていくことではない。
自分で自分の主となる軸を意識しながら行動していくことが前提で、しかしそうなると当然、受け入れ難い価値観もある。
だが、それを否定するではなく、ある一種の価値観として、そんな志向性を持つ人種もいる、くらいの認識を頭の片隅に置いて生きていけばいい。
至極当然のことであるが、意外にもこういった考えができない人間というのも実際に存在して、受け入れられない価値観があることを、他人へわざわざ伝播させていくことを好む人種もいる。
彼らはそういった人間を蔑み、自分よりも下位の存在であるということを自他ともに確認することで、自分の地位が相対的に上であることの証明を、躍起になってしているのだろうか。
しょーもない。
話がそれてしまったが、多様な価値観がある中で、どんな権威を持つ他人の価値観でも取り込むべきか否かの判断をしながら、結局は自分の軸や判断基準をもって主体的な行動を選択していくことが大切なのである。
それが「自分らしく」生きていくことであり、自分の人生を100%生きていくために必要不可欠な思考だと思っている。
後半論点ズレてしまった。
でも結論、自分の中の機微な変化を楽しみながら生きていったら人生楽しくなるんじゃないの、という提案でした。
文章の構成はほとんど書きながら決めているからまとまりのない文章になってしまっている気がする。
暇があったらしっかり構成を考えて書いてみようと思います。
また読んでください。
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